「惜春の詩」

松崎一先生を語る

平成23年5月15日開催の偲ぶ会への追悼文より
物理科関係者からの寄稿集

松崎先生という人
宮地良彦 信州大学元学長・信州白線会会長
松崎先生の教え
平林喜明 信州大学文理学部物理専攻第6回卒業
松崎一先生を偲ぶ
根建恭典 信州大学文理学部物理第9回卒業
松崎一先生の思い出
松原正樹 信州大学文理学部第10回卒業
「インテグラル」
清水邦男 信州大学文理学部第11回卒業
松崎先生、ありがとう
吉江 寛 信州大学理学部物理教室元教授
松崎先生という人
宮地良彦(信州大学元学長・信州白線会会長)

 松崎一先生に初めてお目にかかったのは、昭和36年2月、教員採用の面接のために私が信州大学文理学部に伺った時でした。京大理学部時代の友人片山泰久君(物理)、川口市郎君(宇宙物理)がともに旧制松本高校で松崎先生の教え子であったことから、松本という土地に親近感を持っていた私は、松高時代そのままの文理学部物理教室で、これまた松高教授そのままの風貌の向井正幸先生と松崎一先生にお会いして、「この学校で働いてみたい」としみじみ思ったものでした。

 大学卒業以来長い研究所勤務で、「カリキュラムって何ですか」と質間するほど無知だった新米教師を、松崎先生はいつも温和な顔で指導してくださいました。お陰で私は、かなりわがままな教師生活のスタートを切ることができたのです。その後の信州大学の教養部創設に伴い、先生は教養部、私は理学部へと所属は分かれることになりましたが、教養部、理学部の授業分担に多大なご協力をいただいたものでした。

「恋人よ、この世の中に物理学と言ふものがあるということは、海のやうにも空のやうにも悲しいことだ。」1947年12月、旧制松本高等学校の期末試験で、この詩を書いた斉藤宗吉の物理学の答案に、松崎先生は59点の判定を下されました。知の配電盤としての旧制高校教授でありかつ教育者である松崎先生の面目躍如たる採点です。この優しさの半面、先生は、1968年の信大学園紛争では、教養部長代理として教養部の封鎖解除の陣頭指揮をとられた厳しさも持ち合わせておられました。先生はまた、統合された信州大学の中央図書館初代館長として組織作りに貢献され、新入生ガイダンスでは「図書館は歩いて来ない、だから歩いてゆくんだよ。」と、図書館利用を呼びかけられたのです。

 信州大学退官後も、先生は松商短期大学学長として、4年制松本大学の設置に努力されました。松本大学の校歌は先生の作詞です。また先生が初代会長を務められた松本東ロータリークラブがはじめられた外国人留学生による日本語スピーチコンテストは、クラブ創立以来現在まで途切れることなく継続して実施され、長野県各界への外国人留学生及びその家族だけでなく、それを応援する市民や高校生も巻き込んで、初冬を飾る松本市の記念行事のひとつとなっています。

 先生はまた、旧制高等学校記念館ではボランティア案内入として、来館者に接してくださいました。

 心の底から学生を愛された松崎先生。今しみじみとその温顔を思い出している私です。

松崎先生の教え
平林喜明(信州大学文理学部物理専攻第6回卒業)

 物理を選んだことで、松崎先生の御指導を受けた事は最高の幸せと思っている。原子物理の授業で、核磁気共鳴(MRI)を学んだ事は今でも忘れられない。

 その後25年ほど経って、日本がイギリスから二台のMRIを初めて購入したという新聞記事を読んだのだ。強力な磁場の中の原子核、つまり陽子が特定の周波数の電波を吸収すると言う物理現象を学んでいた。

 「MRI輸入」の新聞記事を読んだ時、直ちに核磁気共鳴検査機が医療用として登場したのだと想像できた。今ではX線、CTスキャナー、そして最高の位置を占める検査機がMRIであることは、皆が知っている事柄となったのであった。

 さて先生は、すばらしい着眼点をお持ちであった。それは松本市博物館を借りての原子力平和博覧会に示された。このテーマを先生が我々に示され、アメリカ大使館の資料とか、信大医学部からはガイガーカウンター等を借用することができた。このときの博覧会の入場者数は、空前絶後を記録したのであった。物理を選んでいた学生は、10人近くいたが、このときばかりは全員登校というありさまで、博覧会は大成功を収めた。

 また翌年には、中部電力に統合された長野県が、それまで各地域で水力発電機を海外から購入したために、50Hz地域と60Hzが混在していたものを、50Hzに統一するという発案があり、これにしたらどうかと提案された。

 当時の100V仕様の音響機器(レコードプレーヤーなど)は現在のような電子ガバナー付直流モーターによらず、インダクションモーター駆動であったから、そのまま使うとモーターの回転が上がって、音量が2音ほど上がってしまうとか、精米機や工作機械はプーリーを変えねばならない。蛍光灯は電流が減って暗くなり、省エネになるのは良いとしても、電極付近の電子流速が上がるために、管の寿命が20%ほど短くなるなどと大いばりで発表した。

 この時、朝目新聞の長野県版が「周波数を切り替えて蛍光灯の寿命2割縮む(信大生研究)」との見出しで大々的に記事にしてくれたので、県の森は人の行列が出来るほどになってしまった。

 我々の研究とは言っても、にわか仕立てで、十分な実験時間はなく、理論的な発想であったから、中部電力からクレームがつくのではないかとヒヤヒヤしていたものだが、何事もなく一件落着となり、ほっとしたものである。

 先生は各部署で多くの実績を残されたことと思うが、小生の最も印象深かった三件をもって哀悼の意を表したい。

松崎一先生を偲ぶ
根建恭典(信州大学文理学部物理第9回卒業)

 先生の著書に「借春の詩」がある。これを拝読すると先生の全てが濃縮されている。その中から幾つかを私の体験を述べて先生を偲びたいと思う。高校の理科は、生物の先生が自分のノートと教科書を読めばどんな大学でも合格すると言われ、又化学の先生は、大学を受験する者は、俺の言うとおり実験すれば、受験勉強をしなくてもどこの大学でも受かる。物理は受験に使わないことにし、白紙答案だけでも最低単位はもらえるものと決め付けて勉強はしなかった。

 そこで信州大学に入学して、二年目に専攻を決めることになり、高校で物理を勉強しなかったから、物理を勉強しようと思い、取りあえず教養で物理を教えて頂いた松崎先生の研究室へご挨拶に伺った。「先生、物理を勉強したのですが」と申し上げたところ、「君は物理の単位が無かったね」と言われ、「いや追試験で合格印があったと思います」。「それなら間題はないよ」。この会話は、今日でも鮮明に記億している。前述の「惜春の詩」を拝読するにつけ、私が、物理の単位が無いので、ビッテに来た学生と思われ、「言いにくい事は、白分が先に言ってやれば良い」との心の広さではなかろうかと思っている。

 又学生が「先生、家庭教師をして下さい」との話がある。私の場合は、4年生になると卒業研究があるので、皆で早めに先生を決め、テーマを貰おうということになった。私は、松崎先生に3月に相談に行きました。その結果「電子回路をしよう。物理では直流理論しかやらないから、少し交流理論を勉強しよう」と申されて、ワンショット・マルチに加えてフリップ・フロップを結合して、レベルを可動とし、フリップ・フロップのタイムを可変にする内容を講義された。かなり困難な条件であり、卒業生の平林先輩に相談に行くやら、資料を読むやらと苦労をした。4月になって、学校が始まると朝9時には、寮に電話がかかり、寝巻のまま電話に出ると「部屋も暖かくなったから、出てこい」とのこと、朝食も取らずに研究室に飛んで行くと先生一人と生徒一人の授業である。一章の終わりに間題があり、それを回答させられた。従って、本文を読むときは、完全に熟読しないと問題の回答に窮してしまう。そして12時になると「君食事をして来い」で解放させられ、寮に一目散で行き朝食兼昼食を食べてほっとするが、ゆっくりして1時に研究室に行くようにした。それから3時ぐらいまでやる。ずると「君、寮の食事は取らなくて良いから、家で食べよう」と申され、5時頃に先生のお宅にお邪魔をし、奥様の手料理を御馳走になり、その後は、勉強かと思っているが、それは無く唯、松高生の「惜春の詩」に出てくる話を聞かせて頂いた。こんな目々が、先生の講義が無い週4日は、同じパターンで6月頃まで続いた。その後も毎月3?4回は、先生のお宅にお邪魔し、大変お世話になったと思っているが、先の松高生が家庭教師をお願いした方と同じで、3月に卒業研究テーマを申し込んだために勉強の亡者と思われ、先生の空いている時間は全て私の為に使って頂いたものと、今だに感謝している。

 それ以上に奥様には、一人息子が増えたような接待を受け、先年亡くなられたが、先生共存お礼を申し上げ、お偲び申し上げたい。

松崎一先生の思い出
松原正樹(信州大学文理学部第10回卒業)

 恩師松崎一先生が去る2月16日にご逝去されました。とても残念に思います。数年前に奥様が突然亡くなられてから体調を崩され長期間療養されておりました。
 その間、一度しかお見舞い上がらず、ご無沙汰をしておりまして大変申し訳けなく悔んでおります。享年93歳とは云えもっと長く生きていて欲しい先生でした。

 私は昭和37年年(1962年)卒業、文理10回生です。自然科学科物理専攻でありましたので、教養部から物理を松崎先生のお教え頂き、卒業研究は松崎研究室で大変お世話になった者です。

 印象に深く残っております思い出をしたためます。

 専攻部に進級して突然立ちはだかった難問の壁は、微分方程式の解法の演習問題でした。先生は例題を黒板に書、解き方の模範を示してくれました。そして3問ほどの問題を提示して教室を退出しました。1日かけて解法せよとの事でした。解き始めましたがとても歯が立つものではありませんでした。ほぼ1日奮闘しましたが1問も解けませんでした。専攻課程の難しさ思い知らされました。先生は我々の学力の程度を見て取ったのでしょう。その後助手の方をつけて下さいまして、補講の演習を続けて下さいました。放り離すことなく最後まで面倒をみて頂きました。

 卒業研究は4年生後半の寒い時期に追い込みとなりました。夜半に先生から電話連絡で研究室に来るようとの事でした。参りますと薪ストーブの薪が赤々と燃え教授室が暖かくなっておりました。パチパチと薪の燃える音しか聞こえない先生の研究室で懇切丁寧な卒業研究の指導を受けました。毎度部屋を予め暖める事は先生にして頂くわけにはいきませんので、その後は私がしましたが、根気よく論文が出来上がるまでご指導を頂きました。当時はその事が普通と思っておりましたが、今考えると先生一人に学生一人の個人指導です。とても贅沢な指導を受けた事になります。この年になり多くの人間にもまれて、世の中の仕組にもわかるにつけて、先生の有り難み味がひしひしとわかって参ります。

 平成13年(2001年)12月に先生の著書「続々惜春の詩」をお贈り頂きました。先生が定年退職後に執筆されたものです。先生専用の便箋に自筆のご挨拶文が同封されておりました。私のような者にまでお贈り下さり恐縮しました。数年後に、お会いする機会がありました折、ご本の中の「年を取ると」の一文にバスに忘れ物をしたユーモアあふれるところが印象にありましたので、お話し申し上げると白い歯をみせて笑いとても喜んで下さった事が脳裏の残っております。そして君は未だ若いのだからしっかりしろと云われました。しかし今私は当時の先生とほぼ同じ年齢になっており忘却の限りをしております。

 先生はこの著書の中で、学問を習うと云うことより「心」を教えてもらったと思え。人を思う心を、物を慈しむ心をここ大学で培えと述べております。私は今この言葉が心に残ります。お教え頂いた事はこのことかと。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

「インテグラル」
清水邦男(信州犬学文理学部第11回卒業)

 松崎先生ご夫妻に我が家へおいで頂いたのは、平成14年5月2日のリンゴの花が満開の時でした。品川から梓川に居を移した翌年でした。前年の師走に引っ越しのご挨拶に上がった折、「一度清水君のところに伺いたいね」と言われたことが実現したのです。当目、我が家にご案内する前に天皇賞で有名な小室のリンゴ園に立ち寄り、車から降りてご夫妻にリンゴの花を見て頂きました。先生は「あんずの花は小さい時から見慣れているけど、リンゴは初めてだよ」と、大変喜んで頂いたのを昨日のことのように思い起こしております。

 昭和34年に文理学部白然科学科に入学して、2年目「物理学」の教養科目を履修するところから、先生とのお付き合いが始まりました。入学と同時に思誠寮へ入寮した縁で、同室の先輩から松崎先生の「物理」はなかなかの難関で、毎年単位を落とす者があるぞと、脅されて、びくびくしながら一度の欠席もなく授業を受けました。肝心の授業内容はほとんど記憶に有りませんが、小さなお声と、丸いきれいな板書が記憶に残っております。

 もともと、物理を専攻しようと決めての入学でしたので、2年目も後半になって同じく先輩からのアドバイスで、早めに松崎研究室への入室許可をいただきに、ウナギの寝床状の研究室に伺いました。先生からいきなり「君は何をしたいのかね」と問われ、とっさに、フォークダンスクラブのアンプを作ったことを思いだし、「電子回路を使った実験をしたい」と答え、まあ良かろうと許可を頂きました。

 その様な経過からして、卒業実験は光電子倍増管(フォトマルチプライヤー)を使用した水の透明度測定器具の制作となりました。フォトマルは外国製の立派なものでしたが、その出力を増幅する真空管の雑音レベルが高く、四苦八苦している内に就職試験の時期を迎えてしまいました。この間、先生は一言も経過について尋ねることはありませんでしたが、2月に入ったある目、「卒論の審査は僕の方で説明しておいたよ」と言われその場を去られました。ノイズレベルをキャンセルするために、光をある周波数で切り取り、フィルターをかける等、悪戦苦闘の目々でしたので、涙の出るほど嬉しかった思いは今も忘れません。

 卒業し就職してからも、物理科の集まりで松本に来る機会があると、会が終わる前に「君に話があるので、椅子に座って待っていてくれたまえ」と言われ、順番が来ると、仕事のこと、今苦労していることなどを事細かに聞かれ何時までも、教え子のことを心配されておられました。この様に大変優しいお気持ちの先生でしたが、一つだけ怖かった思い出があります。

 それは、物理数学の試験でAーBの二点間の電位差を求める問題でした。正確には二点間の電位差の絶対値を求める問題でした。試験が終わって数日後、先生から呼び出しがかかりました。「君、電位差を求める方法を説明してくれたまえ」と問いかけがあり、積分経路を定めインテグラルします。と答えると、それは間違っていない、「しかし、インテグラルの始点と終点が間違っていると思うが?」と言われたのに対し、私が、絶対値を求めるのだから、経路は、といった途端、先生は「君、明日もう一度来てくれたまえ」と言われ席を立たれました。次の日先生に「申し訳ありません、間違っておりました」と告げると、先生は「解って貰えればいい」とだけ言われ無罪放免となりました。先生は大変思いやりのある、優しい心をお持ちでしたが、インテグラルを見るたびに、こと学問には厳しい先生であったことを冷や汗とともに思い起こしております。

松崎先生、ありがとう
平成23年5月 吉江寛(信州大学理学部物理教室元教授)

 私が信州大学理学部物理教室の助手になったのは昭和42年(1967年)4月である。当時物理教室はヒマラヤ杉の文理学部にあって、私の配属先は竹村先生がおられた統計研究室であった。竹村先生の研究は蚕の繭玉のセリシンとお聞きしたが、セリシンがわからないので、理化学辞典を調べた。すると「繭糸中の繊維フィプロイン…」とあって、ますますわからなくなったのである。そこで、竹村先生に近いものをと考えて、高分子溶液の粘性実験をやることにした。オストワルド粘度計を使うから研究費は安いものである。

 私はそれまで大学の学生実験しかしたことがない素人であったから研究するための実験は初めてだった。ところが、高分子(ポリスチレン)溶液の粘性に低濃度異常が見つかった。これを論文にしようと思ったが書き方がわからない。そこで松崎先生に相談すると、先生は「科学論文の書き方」という本を下さった。こうして私の研究論文第一号は「高分子化学」という雑誌に掲載された。

 その後竹村先生が教養部に移られて、統計研に磁性の辻村先生が来られた。私はこの先生の指示に従って、磁性の研究をすることになった。磁性といっても範囲は広いが研究題目は「希土類一遷移金属・金属間化合物のNMR」である。この金属間化合物の試料を作るのに高周波炉を使う。

 その高周波炉が、ある日、突然壊れた。年度末のことで研究室には金が無い。そこで、教養部の松崎先生のもとに研究費を借りに走った。すると先生は「費用を貸すことはできないが、セレン整流器をこちらで買って君に渡す。但し、教養部の物品だから備品番号をつける」と言われた。その後高周波炉は一度も故障することなく良い試料をたくさん作ってくれた。

 平成12年3月、私は定年になったが、退官前のある日、世話になった高周波炉を見に行った。ついでに裏側のトビラを開けて見た。そこにはあのセレン整流器が鎮座していた。整流器の片隅に、備品番号の書かれた「信州大学教養学部」のレッテルが、やたらに大きく見えた。

松崎先生
 本当にありがとうございました。