訃報         

■まことに残念なお知らせです。埼玉県のご子息のもとに移住されていた松崎一先生が、2011年2月16日ご逝去されました。享年93歳。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。「松崎先生を偲ぶ会」開催のご案内と、先生の思い出についての会報への寄稿を掲載します。
松崎 一 先生 1917年(大正 6年)更級郡稲荷山町(現更埴市)に生まれる。 旧制松本高等学校を経て、東京帝国大学理学部物理学科入学。1942年(昭和17年)松本高等学校講師嘱託同校教授任官。1950年(昭和25年)信州大学文理学部助教授に就任。1978年(昭和53年)同大学教養部部長に就任。1983年(昭和58年)同大学退官 その間同大学図書館長、教養部長を歴任。同年 松商学園短期大学学長就任。1993年(平成5年)同大学退職。


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      「松崎一先生を偲ぶ会」のご案内

 桜花の候、皆さま方には、ご清祥のこととお慶び申し上げます。 このたびは、東日本大震災の余震が続く中、広く多くの皆様から敬愛された 松崎一先生が亡くなられニケ月が過ぎました。 この間に、先生とご親交の深い関係の皆様から、自然発生的に「松崎一先生を偲ぶ会」を開こうとの機運が盛り上がりました。
 集まりの内容は「偲ぶ会」でありますが、文化会館の意向もあり、会の名称は、先生の著作からお借りして
   「惜春の詩」― 松崎一先生を語る ― とし開催いたします。
 そこで、ご遺族にもご了解をいただきまして、下記の会を計画いたしました。 心から学生を愛された松崎一先生の面影を偲ぶと共に、先生が常に抱いておられた、人と人とのつながりを大切にされる思いを語り合う会となります事を願っております。
皆様と共につくる会として、会費制で行いたいと思います。
 何卒、友人知人をお誘い合わせの上、お気軽にご参加頂けましたら幸いです。

             「松崎一先生を偲ぶ会」発起人代表  宮地 良彦

             ―記―

  「惜春の詩」― 松崎一先生を語る ― 
  日 時 平成二十三年五月十五日 午後1時半より3時半
  場 所 「あがたの森文化会館」 講 堂   п@0263-32-1812
  会 費 1000円
       ごあいさつ 先生を偲ぶお話 懐かしい映像 ご家族のお話 など

  世話人会
       代表 宮地良彦(信州大学元学長・信州白線会会長)
           根津武夫(松本高等学校同窓会長)
           可知偉行(信州大学文理学部同窓会長)
           古畑忠男(松本東ロータリークラブ会長)
           住吉広行(松本大学学長代行・人間健康学部教授)
                        《順不同・敬称略》  

  連絡先 〒390-1702 長野県松本市梓川梓1034‐11 清水邦男 気付
  E-メール m-shinobukai@aurora.ocn.ne.jp


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     ___◆松崎先生の思い出__________________

       小林 善哉(理学2S/電子研究室・広島市立美鈴が丘高等学校)              

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   (~)      恩師・松崎一先生が、2月16日に老衰のためご逝去されたとの
 (こ※こ)  連絡を受けました。実に残念なことです。享年93歳とはいえ、私
  (_)(_)    たちにとっては、もっともっと長く生きていて欲しい先生でした。  
       
       松崎先生は、大学での物理を最初に教えてくださった方なので、
      私にとっては、特別に思い出深い先生です。ここに、松崎先生の
      ご逝去を悼み、謹んで哀悼の意を表します。この機会に松崎先生
      の思い出を振り返り、先生のご指導を受けた者として同窓生の皆
      さまと思い出を分かち合いたいと思い、一文をしたためます。
 
                    ※     

       私は、昭和42年(1967年)入学の2Sですから、松崎先生は当
      時50歳くらいであったと思います。今の私の年齢からすると、50
      歳というと「若い!」と感じますが、当時、新入生の私たちから
      見れば、ご年配に映りました。

       私たちは、松崎先生に教養部で教養科目としての物理学を教え
      ていただきました。教養科目とはいえ、それまでの高校物理と比
      べて格段に難しくなっていました。運動方程式も微分方程式を使
      って表しますし、いかにも「大学の勉強をしている」という気持
      ちになりました。同時に、数学の力が相当ないと付いていけない
      と感じ、頂上の見えない高い山の麓に立ったような不安と期待の
      入り交じった気持ちでした。

       教養部の授業は人文科学、社会科学、自然科学、語学、体育な
      どの広範囲の教官の授業を受けました。教官も多種多様で、たと
      えば、法学の教官のように、学生が質問すると怒り出すというプ
      ライドの高い方もいましたが、松崎先生は、常に学生の質問に対
      して真正面からそれを受け止めるという姿勢をもっておられまし
      た。

       教養部であったため松崎先生の授業には、化学科や地質学科の
      学生も出席していました。化学科のある学生が、「ニュートンの
      運動の第2法則で、力が0の場合が第1法則になると考えれば、
      運動の第1法則は第2法則にまとめられる、と考えてもよいので
      はないでしょうか」と質問したことがありました。残念ながら、
      松崎先生がどのように答えられたか覚えていませんが、学生の質
      問にしっかり耳を傾けられ、納得のいく説明をされたことは確か
      です。

       また、別の時にも、「君の考え方はまちがっている」とはっき
      り指摘されるなど、用語の理解や使い方の間違いもきちっと指摘
      されるなど、ポイントを押さえた緻密さの感じられる授業だった
      と記憶しています。私も一度は先生が「うーん」と、うなるよう
      な質問をして、松崎先生に挑んでみたかったと、今残念に思って
      います。

       今、私の手元には、ザラ紙に印刷された手書きの「力学問題」
      があります。これは、もうすっかり茶色に変色していますが、お
      そらく松崎先生の直筆によるものだと思います。この「力学問
      題」は、当時使っていた『大学課程物理学精説』(森北出版)に
      はさんであったもので、これを見ると、当時教養部で私たちが勉
      強していた物理の内容を知ることができ、とても懐かしい思いが
      いたします。

       また、松崎先生は身近な現象をとおして私たちの理解が深まる
      ように心がけておられました。たとえば、角運動量の保存につい
      て説明されるとき、フィギュアスケートのスピンを例に出して説
      明されたことがありました。その折り、先生自らその仕草をやっ
      て見せて、教室を沸かせられたことがありました。そのとき、先
      生は笑いを取ろうとしてではなく、無意識のうちに、今ならさし
      ずめ「浅田麻央のような」そのポーズをしてしまい、先生も苦笑
      しておられました。これも、先生の熱心さから出た、おかしくも
      懐かしい思い出です。こんなことを書いていると、そのころの松
      崎先生のお顔や表情が自然に浮かんで来ます。

       もう一つ松崎先生について思い出されるのは、私たち(2S物
      理)が大学に入学して間もなく、松崎先生をお招きして「しづか」
      でコンパを開いたときのことです。これは「理学部同窓会報」
      (16号)に書いた内容と重複しますが、もう一度取り上げさせてく
      ださい。

             当時、教養部では第2外国語の選択によって、クラスが分けら
      れていました。物理学科でドイツ語を選択した者は皆同じクラス
      で、「担任」は松崎先生でした。同時に、私たちは教養部で物理
      学を松崎先生に教わりはじめたばかりでした。昨今は、大学当局
      が、新入生に対し飲酒を厳しく禁止しているようですし、教官も
      学生と酒を飲むのを敬遠するようです。当時、私たちは、全員が
      未成年でしたが、新入生ばかりで「しづか」の二階に集まって、
      先生と一緒に酒を飲んだのです。

       今になって、松崎先生もよく来てくださったものだとつくづく
      感心します。これが今の時代・世相ならば、先生も学生も相当の
      リスクを覚悟しなければならなかったことでしょう。その「しづ
      か」でのコンパで、今でも私の記憶に残っていることがあります。
    
       松崎先生は、「趣味は何ですか」と一人ひとりに訊かれました。
      その時、誰かが、「私は小説を書いています」と答えると、松崎
      先生は妙に感心され、「昔、そんな生徒がいた」と言われました。
      はて、誰のことだろう・・・、と思っていたら、松崎先生は、当
      時松高生であった北杜夫を教えられたことやそのときの思い出を
      話してくださいました。

       そして、「将来この中からもそんな人が出るかも知れないよ」
      と言われました。最後に、松崎先生は、我々全員に、「いつでも
      研究室に遊びに来てください」と言われました。私は、大学に入
      学してこの機を境に、先生との距離が急に近くなった気がしまし
      た。それから数日して、物理学科の友人と連れだって松崎先生の
      研究室におじゃましました。 

       このように懐かしい思い出の多い松崎先生にも卒業後お会いす
      ることはありませんでした。一昨年、信大創立60周年記念式典に
      出席したとき、2S物理の仲間と再び「しづか」に行きました。
      そのとき、「この二階に松崎先生や同期生の仲間たちと一緒に集
      まったのだなー」と、しみじみと懐かしく見上げました。

                    ※             

       松高生が書いた手記を集めた『われらの青春ここにありき』を
      読むと、松崎先生ご自身が松高出身(17回理甲)であり元松高教
      授でもあったという立場で、手記を寄せておられています。その
      中に、先生のお人柄をよく表す出来事が載せられていますのでご
      紹介いたします。
      
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       彼らが、東京の大学に進んで、いよいよ来年は卒業という、あ
      る夏の朝、私(松崎先生)の家の門をたたいて彼のいうのに「ク
      ラス会を今日しますから、先生、御出席くださいますか」ときた。
      「もちろん、よろこんで。場所はどこ?」と私。「先生のお宅と
      言うことにして皆に通知してあります。よろしいでしょう」。万
      事この調子。その晩ころげこんだ学生二十数名が、遅くまで隣近
      所に「私の家ここにあり」と喧伝してくれたあげく、山に登りた
      いと数名は泊まり込んでいった。
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       このように松崎先生はとても気さくで、何でも受け入れてくだ
      さるという方でした。最後に、松崎先生のお人柄をよく表してお
      り、私が感銘を受けたエピソードをもう一つご紹介します。これ
      は先生がお書きになった「私の半生」に載せられているものを一
      部抜粋という形で引用いたしました。

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       「兄さん、家内が結核らしいんだ」
       弟の困ったような声に、私は居ても立ってもおれず愛媛まで飛
      んでいった。会社勤めの弟は一歳半の乳飲み子を抱え途方に暮れ
      ていた。
       「じゃあ、この子を松本に連れていってやろう」
       当時、愛媛から松本まで何遍も列車を乗り継いで28時間余の旅
      だった。私はおむつをかかえ、子供を背負って汽車に乗った。途
      中、京都付近であまりにも泣くので下車し、おむつを替えると泣
      きやんだ。おむつを駅のトイレで洗いながら切なさが胸に込みあ
      げた。こんな状態でこれからどうなるかと、私は急に不安になっ
      た。が、もう戻れない。実は妻にも連絡せずに連れて帰ったので
      ある。家には長男が小学校3年生、次男が幼稚園児という二人の
      子供がいた。しかし、妻はこの大きなお土産(?)を見て何も言
      わなかった。
       「二人育てるのも、三人育てるのも同じですから」
       妻のその言葉が何より有り難かった。知らない人たちは、わが
      家に第三子が誕生したと思ったらしい。
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       この出来事からも分かるとおり、松崎先生はとても人間味あふ
      れる、思いやりのある方でした。(もちろん奥さんも同じくらい
      えらいと思います)今から思えば、私が知っていた先生のお人柄
      はそのごく一部分でしかなかったと思います。もっといろいろ先
      生に接していたら……と返す返す悔やまれてなりません。

       信大退官後、松商学園短大学長に就任された先生は、校歌を制
      定される際、先生自ら作詞をお引き受けになり、才能教育の鈴木
      鎮一先生が曲をつけられ、とても立派な校歌ができたとお聞きし
      ています。

       その後、松商学園短大を勇退され、今度は信大で聴講生として
      若い学生と共に学ばれたそうです。そして、「今は週に一度、旧
      制高校記念会館に遊びに行って、自称案内人(?)をつとめてい
      る。」と「私の半生」に書いておられました。

       こうして見ると、先生は長野県のご出身であり、松高そして信
      大で教鞭を執られ、松本の地で常に学生と共に歩んだご生涯であ
      ったと思います。私たちにとっても、信州・松本はこころのふる
      さとです。これからも、松崎先生と共に過ごした、青春の思い出
      を大切にして生きてゆきたいと思います。 
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●「信州大学物理同窓会」事務局準備会●
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