■R. Brownはブラウン運動を
          如何に観察したのか

美谷島 實(文理15回卒/信州大学理学部物理科学科・素粒子論研究室教授/長野県松本市在住)        01SEP.2005

 今年がアインシュタインが三大論文(「特殊相対性理論」、「光電効果」および「ブラウン運動」)を発表した1905年からちょうど100年目に当たることから、『世界物理年2005』と定めて、世界各地で関連イベントが開催されています。信州大学物理科学科素粒子論研究室でも、『「世界物理年2005」プロジェクトR. Brownはブラウン運動(花粉に含まれている微粒子の運動)を如何に観察したのか』とのテーマに取り組んいます。また、このたびの研究は 11月の公開講座(11月5日(土)午前11:00〜午後5:00 集合場所=信州大学理学部正面玄関 費用=5,400円)でも取り上げる予定です。

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1. はじめに

 今年は「世界物理年」ということで100年前のEinsteinの「ブラウン運動の理論」の論文に関係する話題が会誌等に発表されている。(下記参考文献:1,2,3,4)

 これらは、主に1905年以降の出来事に関係している。歴史的な文献として(下記参考文献:5,6)を掲げておく。この小文では、逆に時代を遡り1820年代のBrownによる「花粉に含まれている微粒子の運動」の観察に関係したことを記したい。主題に入る前に、何故こんな話題を取り上げたか説明したい。
 1980年代の中頃、教養教育の改革が話題になり信州大学教養部でも「無単位の教養ゼミナール」の時間が設けられた。その時、筆者の準備したテーマが「ブラウン運動」であった。使用したテキストは文献(下記参考文献:7,8,9)等であつた。一年後に学生が作成したレポートが今も残されている。(※注1)その時の参考文献(下記参考文献:7)『だれが原子をみたか』の12ペ―ジに記載された挿絵(此処で写真1に代えた)が今回の話題に関係している。著者の江沢氏は、「Brownはこのレーベンフックの顕微鏡でどう観察したのか」と疑問を出された。四半世紀後になるが、今回その疑問に対する回答を提出したい。写真1の顕微鏡は、レーベンフックの顕微鏡である。

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2.1827年のBrownの「花粉に含まれている
微粒子の運動」の観察方法

 有名なBrownの「ブラウン運動」の論文(下記参考文献:10)は、最初は私的なパンプレットの形式で出版されている。(これは、当時の科学論文の普通の発表形式だったのだろう。因みに、この頃Brownは、大英博物館の植物部門の部長の要職についている。)彼のパンフレットが話題になったのだろう、直後に学術雑誌(下記参考文献:10)の編集長の依頼でそこに発表されている。

 その数年後に、最初の論文に対する誤解を解消するために別の論文(下記参考文献:11)が発表されている。これらは、1858年にロンドンで出版されたBrownの論文集2巻(下記参考文献:12)に収められている。

(※注1) 信州大学での「教養ゼミナール」では、数台の顕微鏡を用いて「花粉から放出された粒子の観察」を実行した。しかし、当時は血球計算盤の知識及び花粉の知識が不足していて蒸発、滞留の問題が解決できなかった。学生は「牛乳」を遠心分離機に掛けて、ビデオで録画に撮りデスプレイの上で微粒子の移動した距離を測定する方法でアボガドロ数を求めた。花粉からの微粒子の観察で四苦八苦していたとき、勝木厚(当時理学部教授)氏が名倉弘氏の記録を紹介してくれた。その記録及び勝木氏のコメントも、板倉聖宣著「私の新発見と再発見」(仮説社)の中に採録されている。Brownの第一論文の訳もその中にある。

 最初の論文の2ページ目に「花粉に含まれている微粒子の観察に使用したレンズの焦点距離は1/32インチのレンズ」とあり、そこに次のような脚注がついている。(要点のみ。)

(1) Banks(ロンドンの光学メーカー)製作の両凸のレンズ使用の顕微鏡で最初に観察した。
(2) Dollond(別のロンドンの光学メーカー)に微調整が可能な単式顕微鏡作製を依頼して、それを用いて『Banks社の顕微鏡による観察』の確認をした。そのDollond社の単式顕微鏡は、数種類のレンズが付いていて、その中の2種類はBanks社のものよりも高倍率である。しかし、論文の一貫性を保つために、また追試をする方の便宜のためにBanks社の単式顕微鏡を用いて観察したことを報告する。

 尚、同じ論文の後半455ページには次の記載がある:花粉に含まれている微粒子の大きさを、Dollond社の色収差を取り除いたレンズを使用した別の複式顕微鏡で測定してもらった旨の記述がある。花粉からの微粒子の大きさは、0.5μm。

 これらの記載から当時2種類の単式及び複式の顕微鏡が存在していたことが伺われる。しかし、英国やオランダのように博物館で実物が見られる訳ではないので、此処は文献(下記参考文献:13〜17)の写真に頼ることにした。入手した文献中“Banks社の単式顕微鏡”で倍率が300倍のものは見当たらず、キュー植物園にあるとのこと。(下記参考文献:16)次に“ Dollond社の単式顕微鏡”として記載されているものは、英国科学博物館(下記参考文献:13,15)及びアメリカのビリゲン博物館(下記参考文献:17)に同じ型のものがあった。

 もう一つは、オランダのユトレヒト大学博物館にある。これらは、同じメーカー製なので非常に似ている。レンズ-ホルダーが円形か、プレート型かの違いのみである。特に文献(下記参考文献:14)によれば、オランダのユトレヒト大学博物館のものは、“Brown- Dollond”として1832年にロンドンから購入登録されている。その単式顕微鏡の大きさは、約7.5cmとある。レンズ-プレートも5枚あり、ポケットに入る大きさで、Brownの論文の記載と大きく矛盾していないようである。尚、文献(下記参考文献:16)の著者は、ユトレヒト大学博物館所有の物は、Brownが1827年にDollond社に注文したものと同型と判断している。

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3.レプリカの作製

 文献(下記参考文献:7)『だれが原子をみたか』の疑問がほぼ分かった時点で、少しばかりの満足感と物足りなさが残った。それは、日本に単式顕微鏡が存在していないか、又は「日本の資料集にはなさそうだ」ということに関係していた。(但し、レーベンフックの顕微鏡のレプリカは別格で、多くの研究者及び諸施設によって所有されている。)

 仮に、日本に“Brown-Dollond”式の単式顕微鏡のレプリカがあれば、「ブラウン運動」の理解の助けに、さらには光学測定器の歴史の理解に少しは役立つのではと考え始めた。作製経過の詳細は(※注2), (※注3)に譲り、レプリカの作製は文献(下記参考文献:14〜17)等に基づいて設計して完成させた。

 (写真2:Brown-Dollond型式の単式顕微鏡のレプリカ)

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4.ブラウン運動の観察

 単式顕微鏡を用いた「花粉に含まれる微粒子のブラウン運動」の観察は、最初校庭に咲いている「オオキンケイギク」を用いた。身近にあるので毎朝採集して撮影の仕方を調べた。透明の突起のある黄色い花粉(約20μm)と花粉から放出された微粒子のブラウン運動が撮れた。

 ここまで来ると、Brown縁の「ホソバノサンジソウ」で観察したくなってきた。花にとっては、8月は時期的には遅かったが、幸い札幌では開花中とのことで入手できて観察した。(写真3)

 三角のお結びのような花粉(割合大きな花粉で約100μm)が最初に見えたときは感激した。今回撮影した動画から5秒間隔の写真2枚を添付する。(写真4)

 (写真3:「ホソバノサンジソウ」,写真4:花粉と微粒子のブラウン運動。5秒間に上の微粒子は、約1μm、下は3μmの移動をしている。(更に、普通の顕微鏡で3つの頂点から微粒子を放出している瞬間の映像も撮れた。)

 Brownが、肉眼で「ブラウン運動」を観察したか、時計職人が使う拡大鏡を使ったか不明だが、彼が使った拡大鏡の写真が文献(下記参考文献:15)にある。

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5.その他ブラウンとブラウン運動に関係すること

5a.ペランの「ブラウン運動」の測定

 ペランは、1905年のアインシュタインの論文発表後、ガンボージ(黄色い絵の具)を用いて、Zeiss社の血球計算盤及び顕微鏡(当然複式顕微鏡)を用いて「ブラウン運動」を測定した。(下記参考文献:5) 

 現時点での追試で、粒子の大きさを揃えるには、ろ紙を使い真空ポンプで引くと良い。又ペランの実験の追試について、興味ある報告が文献(下記参考文献:18)にある。

(※注2) ユトレヒト大学博物館に“Brown-Dollondモ型の単式顕微鏡の測量図を依頼したが、回答が得られなかった。

(※注3) レプリカと言っても素人(理論物理専攻)が作れる話ではない。約180年前の最先端技術である。想像図は文献(下記参考文献:14,16)に基づいて描いた。設計図はどうするか、機械系の作図及び光学系の作図をどうするか。インターネットで調べていたら、ある高校で開かれた「レーベンンフックの顕微鏡の作成」の記録が見つかった。手紙のやり取りから信州大学文理学部の卒業生の松原正樹(当時日本顕微鏡工業会事務局長)氏と分かり氏のネットワークで作製にこぎ着けた。 筆者の最初の試作品は、レーベンフックの顕微鏡のように2枚の真鍮板に球レンズ(叉は凸レンズ)を挟む方法でレンズ・プレートを作り、古い解剖顕微鏡に取り付けた。この場合、上下の微動及び左右の微動は、不可能で手動で操作する。

5b.BrownとDarwin

 ダ―ウイン自伝(下記参考文献:19)には、3箇所でBrownのことが述べられている。Darwinは、有名なビーグル号出航前にBrownの薦めるBanks社の単式顕微鏡を購入している。Brownは、Darwinにも、「細胞内の流動現象}を見せている。「種の起源」刊行後のDarwinによるBrownに対する人物評価は「思想家」と「生物学者」の相違を表しているようだ。 <

5c.顕微鏡メーカーDollond(息子)とFaraday

 Faradayの伝記を紐解くと、1832年頃ガラスの改良の国家プロジェクトの専門委委員に借り出された記録がある。その委員会に顕微鏡メーカーのDollondも出ていたことはガラスが国家事業(戦艦の発見のために良い望遠眼が必要)の一つであったことを物語っている。(下記参考文献:20)  

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《 謝意 》 3.レプリカの作製は、信州大学理学部、松原正樹氏、オリンパス及び鎌滝製作所の協力で実現できた。単式顕微鏡の映像撮影は、化学教室の石川研究室、尾関研究室の皆様、山本雅道(山地水環境センター)氏、及び松原氏の協力で実現した。記して深謝したい。また、「ホソバノサンジソウ」探しに協力頂いた理学部南支援室の方々、及び花を提供して下さった杉木様に感謝申し上げる。


《 参考文献 》
  1.  A. Einstein, Annalen der. Physik, 17,549 (1905);
    M. von Smoluchowski, ibid, 21,756(1906);大野陽朗監修、『近代科学の源流―物理学篇II』。
  2.  田崎晴明、「ブラウン運動と非平衡統計力学」、(日本物理学会編、『アインシュタインと21世紀の物理学』、日本評論社(2005)).
  3.  柴田文明、 「ブラウン運動から揺動散逸定理へ−非平衡統計力学の系譜―」、日本物理学会誌60、No5、385(2005); 一柳正和、『不可逆過程の物理―日本統計物理学史から』(日本評論社 1999). 
  4.  北原和夫、 科学 75、195(2005)。
  5.  ジャン・ペラン著、水島三一郎・玉虫文一・植村琢 訳、『原子』(岩波書店、1925)
  6.  土井不曇、「ブラウン運動」『物理学文献抄 II』(岩波書店、1928).
  7.  江沢洋、『だれが原子をみたか』(岩波科学の本17)(岩波書店、1976).
  8.  米沢富美子、『ブラウン運動』(共立出版、1986).
  9.  E. Nelson,“Dynamical Theorem of Brownian Motion”, (Princeton University Press,1972).
  10.  R.Brown, Philosophical Magazine, 4,161(1928).
  11.  R.Brown, “Additional remarks on active molecules” (pubulished on July 28th,1829).
  12.  R. Brownの論文集 2巻:“Miscellaneous .Botanical Works of Robert Brown”, (Ray Society, London,1858).
  13.  小林義雄, 「世界の顕微鏡の歴史」(1980).
  14.  P.H.Van Cittert, “Descreptive Catalogue of the Collection of Maicrscopes in charge of the Utrecht University Museum with an introductory Historical Survey of the Resolving Power of the Microscope”, (P. Noordhoff N.V.-Groninger- Holland, 1934).
  15.  GL'ET. Turner, メThe Great Age of the Microscopeモ (The collection of the Royal Microscopical Society through 150Years), Adam Hilger,1989).
  16.  Brian J. Ford, モSingle lensモ,(Harper and Row, 1987); 「先人たちが見たミクロの世界」日経サイエンス、1998年7月号72.
  17.  The Billings Microscope Collection of the Medical Museum Armed Forces Institute of Pathology(1987)
  18.  岡崎隆、森剣治、遠藤太郎、「分子運動を見る(ブラウン運動の観測と計測)」、物理教育、第52巻、60(2004).
  19.  ノラ・バーロウ編、八杉龍一、江上生子訳 『ダーウイン自伝』(筑摩叢書197) (筑摩書房、1972).
  20.  B.ボウワーズ著、田村安子訳、『ファラデーと電磁気』、(東京図書、1978).



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